★関西ブント Chronicle 2024年2月11日更新
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「リベラシオン社」でアップしている、機関誌紙・パンフレット・文書等は、第二次ブント(及び、その分派)に関係した方々には、およそ理解は出来るとおもいます。
しかし、「リベラシオン社」を見られる方々は、上記の今や「少数派」では無く、WEBの特性からして世代も様々な方々と思われます。
「新左翼ーブントの歴史年表」は、「年表」でしかなく、説明を省いています。ここに、簡単に「関西ブントの歴史」を記します。WEBでアップした資料をご覧になる時、参照して下さい。
人名は、初出は本名を記すが、機関誌紙の文書と組織変遷を述べて行くので、ペンネームとする。ペンネーム(本名)リストを参照されたし。
(1)前史
共産主義者同盟関西地方委員会は、1959年12月×日に結成された(議長ー今泉正臣・書記長ー小川 登)。58年12月共産主義者同盟が東京で結成されて約一年後である。
59年11月~12月にかけて大阪市大(武田信照・柳田健・清島靖典)、同志社大学(佐藤浩一・仲尾宏・浅川清・高野澄)、京都大学(今泉正臣・小川登・北小路敏)等の
日本共産党細胞から「多数派」として分岐して、共産同各大学細胞が結成された。同志社大学は「小さな旗あげ」(ビラ・佐藤浩一)、京大は「新しいサイは投げられた」
(『鉄鎖を砕け』創刊号)が出された。
「京大の全ての学友諸君、・・・資本主義の重い鉄鎖を打ち破り。人間をとり戻そうとする革命の新しい力が、わが京大にも今やしっかりと根ずきつつあることを全ての友に公然と告げる時が来た。
その名は共産主義者同盟京大学生細胞!・・・」(「鉄鎖を砕け!」創刊号)
「・・同志社細胞(佐藤浩一、仲尾宏、高野澄、浅川清など)、京大細胞とつづいてブントに移行しましたが、魅力的なオルガナイザーとして京都にやって来た、
生田浩二、唐牛健太郎の人柄に共感してブント入りした同志社などは、トロツキーに関する知識もなく、自前で情勢を分析し方針をたて、運動を組織していまし
(佐藤浩一「田原芳論文集出版記念の集い」スピーチ2006年)
奈良女子大学等でも、「結成」されたようだが、資料が無い。関西の各大学での動向は不明です。
これらの日本共産党離党ー共産同「細胞結成」は、各大学で自主的であるが、共産同中央(東京)から来京・来阪された古賀康正、生田浩二、唐牛健太郎等の献身的オルグによってでもある。
同時に、12月×日大阪中電(電電公社)で、労働者の前田裕晤(同志社大学二部学生)によって、共産同の「秘密細胞」(日本共産党内)も結成された。
又60年4月共産同神戸地区委員会(機関紙「鉄鎖を砕け!」)が、藤本敏夫(同志社大学の藤本敏夫とは別人)によって結成されている。
「東京では人の人生が毎日変わっている!東京に続け!全ての活動家諸君、戦闘配置につけ!」(「京都府学連通達」)。60年安保闘争は、京都(京都府学連)ー大阪(大阪府学連)でも闘われている。
しかし、60年6・15闘争後、7月共産同第五回大会以降分派闘争に入る。「革命の通達」派、「プロレタリア通信」派、「戦旗」派の分派闘争の関西への波及は不明である。
関西では、61年1月「革命の理論」第1号(~3号)が共産同関西地方委員会教宣部から発行され、2月×日共産同関西地方委員会大会が開催された
(提起文書「当面する階級闘争と反スタ組織の任務」長尾弘夫)。その後、今泉、小川、(北小路)は、革共同全国委員会への加盟を行う。
又、藤本敏夫(神戸地区委員会)も、革共同全国委員会に加盟していった。京大の主要メンバーが革共同に移行したが、社学同のメンバーは留まった。
この間、「運動の新しい方向・運動論として」「綱領への前進1・2」花井 正(佐藤浩一)によって執筆された。
61年7月全学連第17回大会には、京都府学連の対案(「政治過程論』山本勝也・同大)が提出された。
これらの経緯から、共産同関西地方委員会の「解体」を受けて、10月労働者協会の設立(機関誌『烽火』)は、大阪市大、同志社大学の共産同細胞結成メンバーと
社学同同志社大学支部(中島鎮夫、望月躬三、田中正治)、そして京大支部(57年浅田隆治、59年新開純也・竹内毅・渥美文夫・浦野正彦等・・・)、
大阪市大(藤本昌昭、上田育子等)、と大崎悟(前田裕晤・中電)によって、なされた。
新しいサイは投げられた(共産同京大学生細胞)他 四月決戦期ーすべての未来は四月のこの戦いにかかっている(共産同関西地方常任委員会1960・4・11)
当面する階級闘争と反スタ組織の任務(長尾弘夫) 社学同京大支部1962・2月総会議案 62年9・30細胞代表者会議討議資料
関西ブントは大衆と共にあろうとした(前田裕晤1998)
政治過程論(共産同資料編集委員会・前夜社1971) 先駆1(1961) 先駆2(1962)
(2)労働者協会ー(関西)共産主義者同盟
『烽火』『共産主義』総目次 機関紙「烽火」総目次
★『戦後思想叢書書』1~3
1965年1月20日ー初版 1965年6月15日 19 65年11月15日 『マルクス主義とは何か』(藤本進治) 『自己疎外論から『資本論』へ』(清水正徳)
(発行)戦後思想叢書編集委員会 (発行)戦後思想叢書編集委員会 (発行)戦後思想叢書編集委員会 4年12月1日 1966年9月10日
大阪大学新聞会出版部
*社学同大阪大学支部(機関紙「火花」)のK氏によって刊行された。『全世界を獲得するために』の他に、二冊が刊行されている。K氏は、以降「印刷業」に進出され、今日に至っておられる。
われらの対立 共産主義者同盟と共産党(佐々木和雄1965) 世界書院2013年 現代企画室2017年
1998年/彩流社 文集 異論・反論(1998) 加藤勝美1986年 武田信照ロゴス2017年
★田原芳/冊子
田原芳初期論文
1966年 1966年 1967年 1969年 1969年 1970年 1970年 1970年
1970年 1971年 『現在革命における党独裁の意義について』(1970?)夢は世界を翔けめぐる(1990) 2005年 2006年田原芳論文集出版記念の集い(2006)
いわゆる狭義の「関西ブント」とは、この期間である。機関誌『烽火』-『共産主義』と機関紙「烽火」の刊行時期でもある。
社学同関西地方委員会ー京都府学連と電通労研(中電労働組合運動)を基軸に関西での政治運動、労働運動等の大衆運動を展開していった。
同時に、ブント再建を目指して、主要メンバーが上京し(飛鳥浩治郎・佐々木和雄、松村三郎、一向 健等)、東京ブント系の諸組織、メンバーとの接触を開始している。
「時々東京へメンバーを派遣するのではらちがあかんから、それを確実に保証するものとして佐藤が東京に職をえてまず移転、中島、浦野、渥美、塩見孝也がつづきました。
再建の方法は、その対象となる組織との討議、共通点の確認、相互信頼、そして共同行動にもとづく組織統合であり、その交渉の役割は主として佐藤、塩見が担い、高橋、黒岩卓夫君
などのグループ、廣松 渉さんや古賀 暹君などの独立社学同のグループとの協議のなかから65年統一委員会の結成に至りました」(佐藤浩一・同上)
「第二次ブントはご存じのように、明大闘争の評価や政治闘争の位置づけをめぐる論争、対立のなかで、やがて組織的対立ー分裂という経過をたどりますが、この時の私のスタンスは、
一致点を見出し統一することの難しさ、分裂の容易さを主張し、分裂回避に力を尽くすことでした。苦労してせっかく一致点を見いだして第二次ブント結成に至った訳ですね。
・・・・・・。まあやはり一致点をつくるというのは大変だけれども、相違点をつくる、見出すのはそう大変じゃない。これは勢いがあります。
なかなか止められるものではない、という苦い経験があります」(佐藤浩一・同上)
推測になるが、東京ブント系との接触、関係はおもに飛鳥浩治郎を中心に岩田 弘、廣松 渉等となされ、佐々木和雄、田原 芳等で千葉正健(SM)となされ、
一向 健等社学同では三上 治、大崎 悟(大阪中電)は松本礼二(電通労研)等多様なラインがあったと思われる
1964年1月には、「春闘討論集会」(関西共産同主催)が開催され、東京電通労研、社会主義青年運動、長崎社研、広機社研等のメンバーが来阪している
6月労働者学生政治討論集会(大阪府立労働会館)は、関西共産同と社会主義青年運動の共催で行われた。千葉正健氏の生前の教示では、
千葉氏は来阪され、佐々木和雄、田原 芳等と「ブント再建」の政治討議を行ったとの事である。
「・・・64年頃に、関西ブントの東京都委員会というのを僕と堀米君という民主党の衆議院議員になった二人で立ち上げんですけれど、
まあ、あまり成功はしなかったんですけれどもね・・」(三上 治・同上)
機関誌紙は、ほぼ全号、全ページアップしている。
京大新聞抜粋集(小川登・浅田隆治・新開純也・八木健彦・上野勝輝・他) 関学新共同デスク緊急号外(1968) 日韓条約粉砕闘争(1966)裁判(上野勝輝1971)
(3)共産主義者同盟関西地方委員会
広義の「関西ブント」とも言える。第二期機関誌『烽火』復刊から廃刊に到る。
同時に、この時期は共産主義同盟統一委員会から共産同再建第6回大会、第7回大会に到る時期でもある。
関西における政治闘争は、京都府学連を軸とする学生運動と全電通、私鉄総連、国労、繊維労連等に専従書記として進出した活動家による「反戦派労働運動」の推進によってなされた。
「阪神共産主義者協議会」はその一つであり、その最大の成果が、1967年12月関西地区反戦連絡会議の結成です。関西地区反戦連絡会議は、
北大阪、堺、吹田、高槻とほぼ全大阪をカバーし、兵庫の尼崎、西宮、京都の洛北、洛西、洛南、和歌山の和歌山等の反戦青年委員会を結集させてい。
当時、革共同中核派は、高槻(反戦教師の会)、枚方(松下労組)等の地区でしかなった。
しかし、1969年10.21大阪中電マッセンストー北大阪制圧闘争をめぐって、大阪中電労研は分裂して、前田裕晤氏の離党にまで至っている。
その後、強引に地区反戦青年委員会の「叛軍行動委員会」への改組(ベトナム反戦闘争から叛軍闘争への、当時の運動情況があったが、労働運動からの召還ももたらした)が行われた。
1971年1月の阪神労働運動活動者会議(阪労活)結成、11月『季刊労働運動』創刊、以降「労働情報」発刊に至る階級的労働運動の流れの中で、
関西ブント系の分派は影響力、指導性を待たなかった。
第二期『烽火』は、全号・全P、PDF化アップしています。
第二期『烽火』総目次
全学連再建大会招請状(京都府学連1966) 同志社人への我々の主張(田原 芳1968)
大阪労働者学園(1966第5期) 大阪労働者学園(1966第6期) 大阪労働者学園(1967?第8期) 「ワタリ」第1号(プロメテウス会1966)
★追悼!藤本進治(1905-1987年・享年82歳)
1927年関西大学入学 50年民主主義科学者協議会(民科) 64年~70年関西(大阪)労働者学園学長
1957年青木書店 1964年 1964年大阪大学出版部 1969年 1969年合同出版 1970年 1972年 1976年 1987年ユニウス
★八木沢二郎論文集(1)-1960年代
ドイツ革命の敗北とローザ(『戦士』NO4・1964) ロシア革命におけるレーニンとトロツキー(『戦士』NO6・1965)
「第三の転換点」と我々の課題(『戦士』NO5・1964) 活動の新しい段階と我々の組織(『烽火』第4号・1967)
★八木沢二郎論文集(2)ー1970年代
党 軍 統一戦線の論の序(『烽火』再刊1号・1970) 火花NO3(1971)
反スタ主義の止揚と現代革命(『序章』第4号・1971) 論争を開始するにあってのメモ(『鉄鎖を砕け』NO1・1972)
赤軍派批判(「烽火」276号ー『鉄鎖を砕け』NO1・1972)
★八木沢二郎論文集(3)-2000年代
アントニオ・グラムシの政治理論とレーニン主義(上)(『情況』3・4月号・2007)
アントニオ・グラムシの政治理論とレーニン主義(中)(『情況』7月号・2008) 注=(下)未完
みなさん、お元気ですか。昔の名前で出ています。(『情況』2008年3・4月号)
中国革命論ノート 文化大革命と世界革命(石川 明1967) プロレタリア国際主義と朝鮮(石川 明1969) チェコをめぐる情勢と世界革命(高見沢洋一1968)
(注)P46~47落丁(白紙)
★「人民新聞」Photes Chronicle (1968~1970) キャプション「人民新聞」
(1968年7・20)伊丹空港デモの先頭をゆく高校生(府高連) (8・4)大阪厚生年金会館でひらぁれた国際反戦関西集会
(8・21)新明和伊丹工場前での抗議集会 (8・21)新明和伊丹工場で抗議する青年労働者・学生 (8・21)
(9・21)大阪空港拡張予定地で集会 第44号(1969・11・15)
★関西ブント系
①京都大学労働運動研究会 謝辞!提供ー元京都大学労働運動研究会 W氏
10.8羽田闘争 10周年記念講演(大沢治男1978・11・8) (発行)1981年12月8日 京大労研論文集1(1982・5・15) マルクス主義を考える交流合宿講演録(1989)
(尼崎三里塚闘争に連帯する会+つぶせ!刑法監獄法改悪反弾圧大阪連絡会議)
②三里塚闘争を支援する労働者の会(三支労)
ボリシェビキを国会へ(三支労1974・1・20) 鉄塔を人塔に(三支労1976・9・16) 実力闘争を堅持し、鉄塔決戦に勝利しよう!(三里塚木の根共闘学生連絡会議1976・9・16)
(1974) 新左翼号外(1974・6・25) 婦人労働者は女性解放闘争の先頭に立とう!(1977)
③ひろば編集委員会 謝辞!提供ー元ひろば編集委員会 W氏
第1号(1983・9・15) 第2号(11・15) 第3号(1984・1・15) 第4号(3・15) 第5号(5・15)
1984・7・15 1984・9・15 1984・11・15 1985・1・15 1985・3・15
ロシア革命記念講演(原 一美・コピー版1986) 三里塚闘争史1966~1987(ひろば特別号) ひろば82号(追悼 前田俊彦1992)
④京大淡路斗争委員会
パルチザン臨時特別号(1970・6・20) パルチザン合併号(1970・8・8)
地域闘争パルチザン(淡路闘争委員会『情況』7月号・1970) 地域パルチザン批判(滝田 修『情況』9月号・1970)
⑤京都大学レーニン研究会 ★『ボルシェヴィズム通信』、全号・全P、PDFアップ!!
創刊号(1971・2・3) 第2号(1971・2・25) 第3号(1971・4・6) 第4号(1971・6・14)
第5号(1971) 第6号(1972) 増刊号(1972) 第7号(1972) 第8号(1973)
京大レーニン研批判(上)(「烽火」272号1972) 京大レーニン研批判(下)(「烽火」274号1972)
★機関紙「闘う意志」「嵐をついて」(京大全学戦線・京都レーニン研究会)
NO11(京大全学戦線1971・5・31) NO15(京都レーニン研究会1972・1・10) 「嵐をついて」NO7(京都レーニン研究会京大細胞1973・1・18)
★反戦共闘会議
創刊号(1971・12・1) 第2号(12・15) 第3号(1972・1・1-15) 第4号(2・1-15) 第5号(3・1-15)
第6号(4・1) 第7号(4・15) 8号欠 9号欠 10号欠 11号欠 第12号(1973・4・15)
★関西社会主義活動者会議 ★大阪地区労働者解放戦線釜ヶ崎解放委員会 ★南大阪の旗編集委員会 謝辞!提供ー???
激流創刊(関西社会主義活動者会議(1972) 春雷第二号(1972) Ⅱ-1(1972・6・10) Ⅱ-2(7・25) Ⅱ-3(10・20)
佐野茂樹(1971) 佐野茂樹(1971) 佐野茂樹(1976) 八木健彦(1971) 上野勝輝(1973) 森恒夫(1973)
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